『自己反省の学としての文化人類学という視点が欠けている』
映像資料としてはとても貴重だと思います。TVの基準で言うと、残酷な映像も収められているので、注意してください。
しかし、最後のナレーションが「原初の森に生きる人間」としてまったくぼくらとちがう人々にヤノマミを神秘化しようとしているように思いました。
このドキュメンタリーのプロットのひとつとして、出産されたこどもを精霊として天に還す(と称して間引きをする)のか、それとも人間として育てるのかという選択権は母親にのみ与えられ、社会はそれに干渉しないというルールが適用される例として、非婚で妊娠した14歳の少女による選択・決断の例がたどられます。もちろん、日本では警察にみつかれば、逮捕されるでしょうし、妊娠は両性の行為の結果なので、間引きに関しては男性も悪いのです。育児は社会全体の責任という観念がないのも悪いでしょう。でも、将来の日本でも、14歳の少女でも、人間関係が希薄化し、社会的善悪からの制裁を受けることもなく、勝手に妊娠し、勝手に間引き(、育児放棄)する性の自己決定権、個人主義、自由放任主義、そして産後間もない親子からとばっちりをうけないためにそれらを放置する事なかれ主義が共同体の安定のために必須の装置として通用してしまうでしょう。間引きの理由が、現代の日本では「遊びたかったから」ではなく、ヤノマミの社会では「天に還せば、死後再会できるから」だからといって、根本的には同じ厄介払いだと思います。
森の中に生きようが、生きまいが、人間はめんどくさがり屋で、自分勝手な理屈を考える文明にして野蛮をもつことに変わりはない、とぼくは思いました。
近代以前の文化人類学が野蛮人を対象化してその逆に自己を文明人と規定するところにその目的があったとすれば、現代の文化人類学は、文明社会の外部にある異文化を見ながら、同時に自分の文明と野蛮とを映し出して確認するところに目的があると思います。
ヤノマミと日本人との同一性を探る視点を取るか、それとも差異を探る視点を取るかという立場のちがいについて言うと、後者の視点のほうからまとめられているので、文化人類学としては古さを感じました。